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こちらはアラフィフ中年サラリーマンの趣味ブログです。鉄道模型・旅行記・投資活動について書いていきます。宜しくお願い申し上げます!

映画鑑賞 引っ越し大名

皆さん、ご機嫌如何ですか?



映画を観てきました。






あらすじ


時は江戸時代前期。姫路藩主の松平直矩は幕府から豊後国日田藩への国替えを命じられる。



【松平直矩】



国替えとは、参勤交代をはるかに上回る莫大な労力と金額が必要な一大事業なのだが、直矩はこれまでの度重なる国替えで藩の財政事情は苦しいというのに、減封まで言い渡される。さらに悪いことに、国替えを担当していた引っ越し奉行が激務がたたって亡くなってしまう。


そこで直矩は後任の引っ越し奉行に、書庫番の片桐春之介を指名する。彼は人と接するのが苦手で、いつも書庫にこもって書物を読んでばかりいたため、周囲から「かたつむり」とあだ名されていた。いつも書物を読んでばかりいるのだから、国替えの知識があるだろうという理由から、春之介が引っ越し奉行に任命されたのだった。


しかし、国替えの経験などない春之介はどこから手をつけて良いか分からず悩み、前任の引っ越し奉行の娘於蘭に助けを求める。春之介は仲間の協力や於蘭の厳しい引っ越し指南に助けられて、国替えの準備を進めていく。



映画の中では国替え理由が柳沢吉保の嫌がらせとして描かれている。

嫌がらせの原因は柳沢吉保との男色関係を断った為。

ちなみに松平直矩は美少年好きである。






【松平直矩の生涯】


越前大野藩主松平直基の長男として生まれる。直基は出羽山形藩、さらに播磨姫路藩に国替を命じられるが、封地に赴く途上で死去した。直矩は慶安元年(1648年)8月17日、5歳で家督を相続したが、姫路は西国の抑えとなる要地であったため、幼少の直矩には不適当と判断され、翌慶安2年(1649年)6月9日に越後村上藩に国替となる。


成人後の寛文7年(1667年)8月19日、再び姫路に復帰した。親族の越後高田藩(藩主松平光長とは従兄弟の関係)の御家騒動(越後騒動)に際し、出雲広瀬藩主松平近栄と共に一族を代表して騒動の調整を行うが、両名共に不手際を指摘され、直矩は領地を半分以下の7万石に減らされ、閉門の上で天和2年(1682年)2月7日に豊後日田藩に国替を命じられた。


4年後の貞享3年(1686年)7月、3万石加増の上で出羽山形藩、さらに6年後の元禄5年(1692年)7月27日には5万石加増の上で陸奥白河藩へ移され、格式の上では従前の15万石に復帰したが、生涯で幾度も国替を重ねた結果、家中は多大な借財を負うことになり、「引越し大名」なるあだ名をつけられた。


元禄8年(1695年)死去、享年54。





それでは、またあいましょう!